大学生である前に、日本国民である前に、一人の人間だった。
ふと目を閉じ、再び開けてみれば、僕は人間だった。人間らしい手で、人間らしい鼻先を掻きながら、僕は自分が何故こうも人間であるのかを考えた。
人間らしいとは、手が5本の指を併せ、鼻が顔面の凸を担うことではない。すなわち、染色体の本数とか、遺伝子情報とか、そういうもの。
僕は、人から生まれたのであれば人であり、そうでなければそうではなかっただけで
居間に寝転ぶ母親の姿が、まさしく人間そのものであったので、そうか、僕は前者だったのだ、と納得した。
他人(僕以外の全ての人としての)は、僕がとある大学に通い始めたことをしみじみと噛み締め、大事そうに懐にしまった。そんな名ばかりの称号に、ミルクをやって太らせるものも、唾を吐きかけるものもいる。
しかしそれは僕自身では無いので、ミルクの味も、唾を吐きかけられる屈辱も、関係がない。
はずなのだが、僕もまたそれを、自分のことのように一喜し、一憂した。
悲しきかな、そういう風に世の中は回り続けている。
悪かぁない。悪かぁないけど。鏡を見れば、ただの人間がいるのだから、良かぁない。
僕はどうしようもないことばかり考えるのが好きなので、食事中、勉強中、帰宅中、お手洗い中、不自由な世間の洗脳の中を自由に思索しては、満足するということを自ずと行っている。
その度に思うのは、「あぁ、僕は人間だなぁ」と。そんな時に、「人間」では困るので、かつて(やら今やら)世界の創造主が「神」と呼ばれるように、僕はそれを「ratt」と呼んだ。
「ratt」とは、僕に預けられたニックネームではあるが、単に僕を呼称するための名前以上に僕自身をよく表した。
僕がrattであることは、僕が地位や名声を排した純たる概念的自己を求めた結果である。
僕は大学生である前に、日本国民である前に、一人の人間である前に、
ただのrattだった。そういう話をしたい。
ブログとは何をする場所なのか、何を書くべきなのか、特に深く考えずに僕は今書いているけれど、
文学的で、情緒的で、かつ論理的で、またこの世で最も非現実的に現実を俯瞰した空間であればこそ良いと、僕は感じる。
小説家になりたい一介の大学生の、下らない人生(観)をつらつらと提示する、それだけの場所です。
愚かすぎるのに
こんな時だから、僕はパソコンに向かって文字を打ってみた。
こんな夜中だから、頭をシェイクして脳みそを鈍く回してみた。
耳やら鼻やら、眠気と言葉が落ちてきた。大抵はひび割れた出来損ないが、掌の上で踊って互いに手を取って見せた。
そうした優美な刹那に、眠気が靄をかけてまさしく夢のようであった。怪物が迫り、眼前に至ってようやく僕は目を覚ます。
大学生とはえらいもので、九月いっぱいは夏休みらしい。有り余る時間を無駄にしているかもしれないという仮説を否定するように、僕は頭を振った。
部屋全体を充足している音楽は、偶然にも僕の頭の動きに寄り添った。
相変わらず僕にとってみれば、世界とはままならないものであった。どうもうまく回っているような地球の内部には、ことばにならない孤独感に苛まれた大勢が埋もれていることが分かった。
そうであってもまた、僕は彼らに手を差し伸べることができなかった。僕もまた、その一人に過ぎないからだ。
我々は仲良く、伝え聞くだけの空の色を妄想することしかできない、のだろうか。
普段は青く、時には赤く、日によっては黒いらしい。空の色は心の色だと、我々は聞いている。
僕は、隣の「孤独」に問うてみた。
「どんな気分だい。君の心が、空の色だよ」
「そうだな。ブルーな気分さ」
「そうかい。さぞいい気分なのだろうね。孤独が果てしなく幸福な瞬間だって、あるものだよね」
そうして僕らはまた、土の茶色に眠った。
私たちは、土くれの小さな亀裂の中を這って進み、辿り着いた場所にある物体の価値も分からない。
彼が片腕を捧げたものに、僕は髪一本も惜しい気がする。逆もよくある。
だからあの時の僕らは、躓いて、転んで、顔に泥を付けて、笑ったのだろう。
そしてそんな日々に、心臓を置いてきたような気持ちがするのだろう。
女神様はいつも微笑んでいるのに、そのことさえ知られれば傷つかないのに、僕はそれを拝むこともできない。
あの時に置いてきた命が、そこに根付いて幸せそうに目を閉じてしまう限り。
あの頃に置いてきた何かを探すために生きることなど、僕には到底できない。僕はどうにも、現在の僕のためにしか頭を働かせないようだ。
誰かが未来の彼方へ放り投げた何かを、追いかけることもない。そんなことは愚かだと、僕には思われる。
愚かしいことこそ人間なのだけど、どうせなら「私」に流された愚かがよい。過去にも未来にも、身体の断片を置いてきた観念としての愚かが、よい。
僕は小麦アレルギーではないが、突然変異だろう
僕は、あの時の僕とは一味違う。それは、単に時が経ったから。
時間さえ過ぎれば、人は容易に変化する。
それでも、過去の自分より今の自分が優れてると、言うことはできない。
大抵人は、どれだけ自分が成長しているのかを自覚するために過去の自分を否定してみたりするが、
(現在の)自己肯定という側面ではうまくいっているようでも、それはさほど成功しない。
単純な、真実と認識の格差だ。我々が自分自身であり続ける限り、大変一朝一夕には拭いきれないバイアスを抱えながら自己を観察する。
どんな時代も、どんな分野も、真実ではないことを真実であると思い込むことほど罪深いことはない。
騙されれば騙された分だけ彼は偽りの幸せを積み上げ、崩壊するときは一瞬だ。
時が経てば人は、愛していた人を憎み、国籍や名義を変え、通い始めた大学も、一か月で行かなくなってしまうものだ。
僕はそういう、世間的にはとても矮小な挫折と、委縮した精神性からの脱出の難儀さの渦中にいる。
とても小さな渦に、大袈裟に溺れて見せている。
実際僕には、昔からそのような傾向があった。高校だって通い続けることがどれほど疲弊することだったか今じゃ想像がつかない、想像するのも烏滸がましいほどであるし、
どんな時点の過去も、違う景色の中で血を吐いていた。
それは、僕がずっと変わらぬ人間であったことを主張しているようにも思える。
事実としての同一人物が、場所だけを変えて同じことを繰り返すという図式は、誰の目にも理解に容易いのは事実だ。
人が前科持ちを遠ざけたくなるような、随分分かりやすい理屈。
それでも、考えずにいられないのは
僕が、今この瞬間にも目にもとまらぬスピードで進化や退化を繰り返していて
その目まぐるしい変化の中で類似した特質を獲得し続けてきたという可能性。
それが偶然ではなく必然であるべき理由は、僕自身が変化しないからではなく、僕に対する周囲の認識が変化しないから。それは僕による僕への認識も含めて。
ありえないことではないと思う。脳による記憶の集積が、例外なく過去の事例から学習し今後の行動を選択するために用いられるとしても、「変化したい」と本人が望んだ瞬間にその人は別人になっているのだと、甘い幻想に僕は傾倒する。
誰かが今の僕を、過去の僕とは全く別物として理解してくれることがあれば、僕は未だ見ない変化を遂げる、かもしれない。
こうして、「人のせいにするな」と言われることを恐れずに、あえて自分の内部ではなく周囲の環境に原因を求めていくということを僕はよくやる。
自分の中に求めなければいけないものというのは、大抵無意識のうちに思考の先頭にあるものだ。
僕にとって反省することは、空腹時に与えられたパスタを食べるほどには当然のことであり、反省を生かして自分を社会に順応させることは、パスタを与えられた僕が小麦アレルギーであるほどには大儀なことなのだ。
狂信的な自愛
散らかった部屋で、コーヒーを飲んだ。市販のドリップコーヒー、といえど、悪くない味だと思う。
もう少し手間をかけて淹れたいというのは正直、僕にとっての理想であって、現実との間には、決して無視できぬ乖離がある。
理想的な自分像と、優雅な暮らしと、片付いた部屋と――十分に思考を燻らせたのちに現実を理解してみると、汚れ、肝心な部分は隠匿された平穏を愛す自分ばかりがもがき苦しんでいるらしい。
ある時には、そんな自分すらも、愛してみることにした。どんな愛もそのものを「知る」ことから始まったし、どんなものを「知る」にも、まずはそれを愛すことから始まったはずだから。
結果的には、何も変わらなかった。自分を愛したところで、世の中が劇的に違って見えるとか、そういう都合のいいことは何もない。
それは考えてみれば当たり前で、世界は自分を中心には回っていないからだ。強いて言えば、自分以外の全てによって世界は主体的に構成され、そこに自分が含まれているのかどうかすら重要ではない。そして恐ろしいことに、それは僕以外の全ての「自分」にも同じことが言える。
人以外のものには、自然に働くもの、人の手が加わるのを待っているものがあるが、いずれにしても人が変化を求める対象は人集団であり、世界を主体的に構成する「自分以外の全て」とは、自分以外の人間全体を指すということになる。
にも関わらず、人間全体を構成する一人一人においては、その存在意義が明確ではない。その事実が、途方もなく闇を抱えている。
僕はそれを、とても怖いと思う。悟ったように「人生に意味はない」と言ってのける人たちも、誰かに希望を与えるためだけに「あなたには価値がある」と道化を演じてみる人たちも。
僕は、とても遅筆だと思う。継続を目標にして初めてみたはてなブログだって、堂々と「はい!続けています」と胸を張れるとは思えない。
しかしそれでこそ僕だという気持ちがある。下らない気持ちだし、誰もが感じてきて、社会という強大な圧力の前に押しつぶされてきた感情だ。
だが僕はそれを愛してやまない。それで世界は変わらずとも、生き方、感じ方が変わらずとも、僕はそれを愛し続けている。
様々な生き方が文学であり、全てが価値だと、僕は心より思う。
たとえ社会に順応できず、報酬という社会に溶け込めた称号を得られず、朽ちていくだけだとしても。