ただのratt

僕のくだらない人生が、上手くいきますように。

狂信的な自愛

 

 

 散らかった部屋で、コーヒーを飲んだ。市販のドリップコーヒー、といえど、悪くない味だと思う。

 もう少し手間をかけて淹れたいというのは正直、僕にとっての理想であって、現実との間には、決して無視できぬ乖離がある。

 理想的な自分像と、優雅な暮らしと、片付いた部屋と――十分に思考を燻らせたのちに現実を理解してみると、汚れ、肝心な部分は隠匿された平穏を愛す自分ばかりがもがき苦しんでいるらしい。

 

 

 ある時には、そんな自分すらも、愛してみることにした。どんな愛もそのものを「知る」ことから始まったし、どんなものを「知る」にも、まずはそれを愛すことから始まったはずだから。

 

 

 結果的には、何も変わらなかった。自分を愛したところで、世の中が劇的に違って見えるとか、そういう都合のいいことは何もない。

 

 

 それは考えてみれば当たり前で、世界は自分を中心には回っていないからだ。強いて言えば、自分以外の全てによって世界は主体的に構成され、そこに自分が含まれているのかどうかすら重要ではない。そして恐ろしいことに、それは僕以外の全ての「自分」にも同じことが言える。

 人以外のものには、自然に働くもの、人の手が加わるのを待っているものがあるが、いずれにしても人が変化を求める対象は人集団であり、世界を主体的に構成する「自分以外の全て」とは、自分以外の人間全体を指すということになる。

 にも関わらず、人間全体を構成する一人一人においては、その存在意義が明確ではない。その事実が、途方もなく闇を抱えている。

 僕はそれを、とても怖いと思う。悟ったように「人生に意味はない」と言ってのける人たちも、誰かに希望を与えるためだけに「あなたには価値がある」と道化を演じてみる人たちも。

 

 

 僕は、とても遅筆だと思う。継続を目標にして初めてみたはてなブログだって、堂々と「はい!続けています」と胸を張れるとは思えない。

 しかしそれでこそ僕だという気持ちがある。下らない気持ちだし、誰もが感じてきて、社会という強大な圧力の前に押しつぶされてきた感情だ。

 

 

 だが僕はそれを愛してやまない。それで世界は変わらずとも、生き方、感じ方が変わらずとも、僕はそれを愛し続けている。

 様々な生き方が文学であり、全てが価値だと、僕は心より思う。

 

 

 たとえ社会に順応できず、報酬という社会に溶け込めた称号を得られず、朽ちていくだけだとしても。