ただのratt

僕のくだらない人生が、上手くいきますように。

僕は小麦アレルギーではないが、突然変異だろう

 

 

 僕は、あの時の僕とは一味違う。それは、単に時が経ったから。

 時間さえ過ぎれば、人は容易に変化する。

 

 

 それでも、過去の自分より今の自分が優れてると、言うことはできない。

 大抵人は、どれだけ自分が成長しているのかを自覚するために過去の自分を否定してみたりするが、

 (現在の)自己肯定という側面ではうまくいっているようでも、それはさほど成功しない。

 

 

 単純な、真実と認識の格差だ。我々が自分自身であり続ける限り、大変一朝一夕には拭いきれないバイアスを抱えながら自己を観察する。

 どんな時代も、どんな分野も、真実ではないことを真実であると思い込むことほど罪深いことはない。

 騙されれば騙された分だけ彼は偽りの幸せを積み上げ、崩壊するときは一瞬だ。

 

 

 

 

 時が経てば人は、愛していた人を憎み、国籍や名義を変え、通い始めた大学も、一か月で行かなくなってしまうものだ。

 僕はそういう、世間的にはとても矮小な挫折と、委縮した精神性からの脱出の難儀さの渦中にいる。

 とても小さな渦に、大袈裟に溺れて見せている。

 

 

 実際僕には、昔からそのような傾向があった。高校だって通い続けることがどれほど疲弊することだったか今じゃ想像がつかない、想像するのも烏滸がましいほどであるし、

 どんな時点の過去も、違う景色の中で血を吐いていた。

 

 

 それは、僕がずっと変わらぬ人間であったことを主張しているようにも思える。

 事実としての同一人物が、場所だけを変えて同じことを繰り返すという図式は、誰の目にも理解に容易いのは事実だ。

 人が前科持ちを遠ざけたくなるような、随分分かりやすい理屈。

 

 

 それでも、考えずにいられないのは

 僕が、今この瞬間にも目にもとまらぬスピードで進化や退化を繰り返していて

 その目まぐるしい変化の中で類似した特質を獲得し続けてきたという可能性。

 それが偶然ではなく必然であるべき理由は、僕自身が変化しないからではなく、僕に対する周囲の認識が変化しないから。それは僕による僕への認識も含めて。

 

 

 ありえないことではないと思う。脳による記憶の集積が、例外なく過去の事例から学習し今後の行動を選択するために用いられるとしても、「変化したい」と本人が望んだ瞬間にその人は別人になっているのだと、甘い幻想に僕は傾倒する。

 

 

 誰かが今の僕を、過去の僕とは全く別物として理解してくれることがあれば、僕は未だ見ない変化を遂げる、かもしれない。

 こうして、「人のせいにするな」と言われることを恐れずに、あえて自分の内部ではなく周囲の環境に原因を求めていくということを僕はよくやる。

 自分の中に求めなければいけないものというのは、大抵無意識のうちに思考の先頭にあるものだ。

 僕にとって反省することは、空腹時に与えられたパスタを食べるほどには当然のことであり、反省を生かして自分を社会に順応させることは、パスタを与えられた僕が小麦アレルギーであるほどには大儀なことなのだ。